中島省三の湖畔通信

山笑う

2022/04/28

一年を通して一番快適に過ごせるのはこの時期かと思うのは僕だけはないと三井寺の展望台から山笑う光景を楽しんだ。木々からのパワーを受けながら境内を歩くだけで元気になれる朝の散歩は最高だ。湖岸でも連休を前に浜大津港にサイクルセンターが今日オープンした。レンタサイクルやカフェそして広い休憩室らを備え、ビワイチ(自転車で琵琶湖一周)の起点としても便利な浜大津港ターミナルに在りこれからの発展に期待した。今日も湖岸では稚鮎釣りの人の姿を多く見かけた。天気予報は連休初日雨と伝えていた。

修学旅行

2022/04/27

夜来の雨も上がり爽やかな、お天気になっているのではと何時もの散歩に出かけた。空を見上げると全天雲に覆われていた。新緑が勢いを増し三井寺の観音堂へ向かう石段は完全に緑のトンネルとなった。樹間から聞こえる鶯の声に励まされ休むこと無く観音堂へ着いた。其処から一段上の展望台に向かう石段を登り始めると後ろから来た修学旅行の女学生に追い越された。何時もなら気配を感じると抜かされまいとペースを上げるのだが、やはり82歳のエンジンでは無理と判断できる自分は爺だと自覚した。展望台では若い声が木霊していた。そして修学旅行が三井寺へ訪れる様になったのは三年ぶりではと思いながら高校生をスナップした。帰路、ギンリュウソウは咲いていないかと何時もの場所へ寄ると成長中の花が見られた。もう少しで立派なギンリュウソウになると思い写真に撮った。湖岸は稚鮎が連れ出し近くの釣り人が糸を垂れていた。最近では外来魚少なくなった所為でバス釣りの人が少なくなったようだ。

タンポポ

2022/04/26

道端や何でもない処で咲くタンポポの花を見かけても余り写真を撮ることがないが、今日は朝の散歩の帰り道、仁王門から県道へ向かう手前に掛かる石橋の傍らでタンポポの綿毛を見て、写真を撮った。タンポポの花は詩人坂村真民さんがよく取り上げる花だ。其の中で「タンポポ魂」と「綿毛のように」は短い詩でも真民さんの優しさが伝わってくる、帰宅後、真民さんの詩集を開き読んだ。タンポポ魂は僕の好きな詩だと口に出して読むと、雨の日も気持ちが明るくなって来た。散歩から帰り、雨が降る前に湖岸ポタリングに出かけた。打出浜湖岸でも黄色のタンポポ?が咲いていた。?マークはタンポポに似ている花も多く在るからだ。琵琶湖を見ると太陽の光を少し残した雲が雨の降る前の美しさを見せてくれた。長閑な平和な時間が流れる中で、ウクライナでの戦争の惨禍を想像するのは難しいが、ウクライナ人が治めるウクライナと言う国からロシア軍は速やかに去るべきだ、そして一刻も早く停戦が成立してウクライナが平和な国に戻れるようにと空に願った。そして雨の降る前の美しい琵琶湖を写真に撮った。

蜃気楼観察会?

2022/04/25

昨日の雨が空気中の埃を流してくれた所為で湖岸から見る琵琶湖は視程もよく琵琶湖大橋もよく見えた。こんな日に蜃気楼が見られれば良いのにと湖岸ポタリングに出かけた。打出浜で自転車を止めてデジカメのファインダーを覗くと琵琶湖大橋の守山側に蜃気楼の気配があり何枚かシャッターを押して、モニターで確認するとイマイチだった。写真を諦めて近くのベンチで休憩していると、遠くに三脚やカメラ機材を積んだバイクを見かけ近づくと、琵琶湖蜃気楼研究会のIさんだった。手慣れた作業で撮影準備をされる姿を見て流石とおもった。カメラや双眼鏡を三脚にセットされ撮影を始められたので僕もカバンから望遠ズーム付きデジカメをだしてファインダーを覗くと少し蜃気楼がでていた。暫く撮影していたが余り変化が無く少し飽きたので一時帰宅した。夕方、湖畔通信用の夕景写真を撮りに湖岸へ向かった。打出浜に着くと、Iさんは炎天の下で蜃気楼の観察を続けている姿を見て本物の愛好家はちがうなと感心しながら近づいた。Iさんは開口一番、つい今しがた迫力あるZ型蜃気楼がでていましたと言われた、もう少し早く家を出れば見られたのにと少し悔やんだ。でも暫くすると素晴らしい蜃気楼が表れた。視程も良く蜃気楼がハッキリ見え写真に撮るにも絶好のチャンスとなり楽しく撮影できた。帰宅後、パソコンで見ると今まで撮った蜃気楼写真の中で一番とよく撮れていた。良いチャンスに巡り会えたことと琵琶湖蜃気楼研究会の人達との出会いのお陰と感謝しながらパソコンから離れた。

ネグロス島の友人

2022/04/24

今日の午後、去年亡くなった、友人の宮里さんを偲ぶ会が開かれる、におの浜のホテルへ行った。宮里さんとの出会いは鳥人間大会が近江八幡で開催された1980年に手製ハンググライダーで大津のチームリーダーとして参加していた時に、僕は運営役員をしている時だ。その後語り合う中で、彼の口からフイリッピンでの反日感情の話が出た。ボーイスカウトの国際大会?で訪れたフイリッピンで日本軍が戦争中に現地で起こした残虐な行動や被害状況を知り、個人で何か償いは出来ないかと考えたと熱く語ってくれた。その後、宮里さんの率いるボーイスカウトで育った仲間達と熱気球を制作して滋賀県では最初の熱気球を完成させてた事も思い出の一つだ。気球が完成した頃、彼はフイリッピンのネグロス島へ再びボランティア活動に向かう為に、単身で日本を離れた。ネグロス島で暮らす貧しい人達の子どもたちの教育支援の為だ。彼(宮里)はあくまでも個人に拘り自分一人の力で出来る活動を続けてきた。数年後、一時帰国した時に彼の仲間(ボーイスカウト)数人を交え宮里さんを支援する会を立ち上げないかと相談した結果、ネグロスココヤシの会が誕生する運びとなった。1995年に設立されたネグロス島ココヤシの会は15年ほど続いた。宮里さん独自の行き届いたボランティア活動は地元で評判が良かった。宮里さんは特にボーイスカウトで育てた仲間たちからボスと呼ばれ親しまれていた。そして2011年にココヤシの会は解散した。彼も(ボス)高齢になったから配慮してのことだ、その後も個人で出来るボランティアを続けたが去年、心筋梗塞になり、それが原因で、彼の望んだ永住の地、フイリッピンのネグロス島で亡くなった。今日の偲ぶ会ではボスを慕うボーイスカウトでボスに育てられた元少年が多く集まって宮里(ボス)さんの活動記録写真を見ながらボスの時代を語り合っていた。僕が宮里さんと会話した思い出で印象に残った言葉がある、毛布と杖があれば何処へでも行ける、と何時も口癖の様に語っていた、きっと天国でも毛布と杖をもって楽しく過ごしていると想像しながらホテルを後にした。 

ココヤシの会は僕の友人清水さんが長年に渡り代表を務めてくれたことも忘れてはならないと思った。

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