写真を撮るのが楽しい日
2022/05/28
今日は一年に数回しかない写真を撮るのが楽しい日だった。そして写真が現実をそのまま伝えていないことを考える日でもあった。写真は中国語の真を写したものから来たと言われている、フォトは光画と訳され、江戸や明治初期まではどのように言われていたのかパソコンで調べるも分からなかった。僕はフォトが一番良いのではと思いながら今日の写真をアップした。
空の美術館
2022/05/27
大津にも素晴らしい美術館が在るのではと何時も思っている、地上には存在しないが琵琶湖が在る、お陰で大津の湖岸は北方へ広がる大空間は京都の市内には存在しない、水平線?の遥か彼方まで見渡せる好条件は大津ならではだ。空の美術館は台風や前線が近づくと特に上空の気流と下方の琵琶湖から湧き出る水蒸気の影響で特有の雲が形成されると言われているから高空の巻雲から下層の積雲までと、雲の種類も多く天才と言われる雲が作り出す造形美はホモ・サピエンスの芸術を遥かに凌ぐスケールで表現される作品を鑑賞するのに湖岸は最高の場所だ。そして空の美術館は全て無料だ。今日も空の美術館を一人で楽しんだ。何時も空を見上げ雲の写真を撮っていると煩わしさは空の彼方へと去って行き、爽快感が残るだけだ。
電気ショッカーボート
2022/05/26
雨の降る前に湖岸ポタリングに出かけた。浜大津港内では、久しぶりに電気ショッカーボートが防波堤傍らで外来魚駆除を行っていた。最近、湖岸でブラックバスの大物を釣り上げる釣り人を見かけなくなった。ブルーギルも以前の様に湖岸に打ち捨てられる事もなく、外来魚は少なくなったのではと思いながら電気ショッカーボートを撮った。浜大津湖岸では近所の釣り名人が稚鮎釣りを楽しんでいた。モロコは復活したがボテと言われ僕の少年時代良く釣れたパラタナゴはまだ復活の兆しはないそうだ。打出浜湖畔公園では黄色の花、キンシバイが咲き始めた。僕は同じ黄色の花、オオバナミズキンバイが湖岸に咲いていた頃の風景を思い出した。今では特定外来植物として駆除対象で徹底的に駆除され姿を見なくなった。植物には罪がないから気の毒なことだとおもった。キショウブも咲いているのを見かけるが直ぐに除去されるのか姿を見なくなった。三井寺の境界を流れる小さな川の中ではキショウブが黄色の花を咲かせ存在感を表していた。
タイサンボク
2022/05/25
琵琶湖と雲の写真ばかりではと、湖畔の辺りを見渡すと遠くで白い花が見えた。琵琶湖ホテル近くの湖畔公園に咲くタイサンボクの花だ。高い処で咲いていて見上げながら撮るから花弁の中は見えないが大きな白い花は人間どもに迎合することもなく、気高さを感じ好きになった。桜の様に人様に見てもらう様に下に向かって咲く花より、堂々している、花言葉は「威風堂々」「威厳」でピッタリだ。写真を撮るのが難しいが花弁が開ききるのを待てば花の全容が撮れるのではと今日は仰ぎ見ての一枚を撮って終わった。打出浜の石積み湖岸では漁師がオオバナミズキンバイの除去作業をしていた。特定外来植物と言われるだけで根こそぎ、徹底的に駆除されても生き残る生命力を持っているから根絶は難しいと聞いた。雑草の除去作業で湖畔公園や湖岸は綺麗になったが、此方も永遠に続く作業は琵琶湖開発の付けではとおもいながら作業風景を写真に撮った。琵琶湖の風物詩には程遠い除草作業は年に数回行われる人工湖岸で繰り広げられる現代の縮図ではとおもった。
大空に雲がなくても・・・
2022/05/24
大空に雲がなくても空の美術館が在ることに気がついた。何時も雲の美術館と言っているが本当は空の美術館だと雲一つない青空を見上げるとイブ・クラインの表現するような青の世界が広がった。そして此の青空の下で何人の人が戦争の犠牲になっているんだろうと遠くウクライナの方向を見上げて此れ以上の犠牲者の出ないことを祈りながら湖岸から青空を撮った。デジカメに記録した青空をパソコンで確認すると青空にシミが一つ浮かんでいた。一点の曇もない青空と思っていても暮らす場所により大きな曇もあると思いながら、デジカメの撮像素子の汚れも小さなシミだが写真の中では大きな傷に見えた。宇宙から見ればウクライナは大きな傷に見えるのではと思いながら写真に映る青空のシミを眺め一刻も早く終戦になるように願った。