中島省三の湖畔通信

紅葉は美しいのか?

2024/11/29

ご近所の三井寺の紅葉は一段と美しさを増して連日観光客で賑わいを見せていた。観音堂展望台の美しい紅葉を眺めていると以前紅葉の仕組み?を解説しているテレビ?を思い出してきた。葉が赤くなるのは木の本体が栄養分の流れを止めるからとそして人間社会に例えて葉っぱ首を切られた社員だとも例え自然界の厳しさの一面を語っていた。そして社会の厳しさを描いた小説を思い出した。その小説「夜が明ける」西加奈子著の社会小説?は今も社会で起きている人間関係の奇妙さや可笑しさをメディアの内側(テレビらの制作会社)の物語として描いた小説はフィクションであることを忘れて小説に出てくるフィンランドの俳優や映画の名前をグーグルで調べたりするほど物語に引き込まれた。話題を多く取り入れた盛り沢山で楽しくも悲しくもありそして社会を考えさせられる小説を夕方読み終えた。

秋の叙景

2024/11/28

コロナから開放された秋は人の流れも戻り近くの三井寺も連日賑わっているが京都のオーバーツーリズムの様にはならないから長閑なものだ。観音堂前のカフェも繁盛していた。紅葉も日毎に美しさを増してきた。琵琶湖疏水観光船も浜大津港まで延伸され大きな港から小さな通船が出発擦る風景は不釣り合いにも見えた。展望デッキが小さな通船の専用発着場に変わってしまった。琵琶湖からの出航と言っても防波堤内だ、小さな川船?では致し方ないと出航する船を撮った。今日は冬型で風が強く湖岸ポタリングも注意して走った。膳所和田神社の大銀杏も少し色づいたがまだ葉は青みあり黄金色には程遠かった。境内には干支の絵馬が飾られていた。今年もリサイクル品を使った蛇がどぐろを巻いたユーモラスな絵馬が拝殿に鎮座していた。

溢れる写真

2024/11/27

スマホを開くと綺麗な写真が溢れ出てくるが脳が記憶として受け付けないのは何故と・・・脳に記憶する必要が無いからではと思った。僕は少年時代からカメラを持っていたが撮った写真の数など知れたものだ。そして記録したフイルムや写真も僕の整頓の悪さから消えてしまったものが殆どだ。でも8ミリフイルムの記録映像は21歳頃から撮影した映像はデジタル化されて残っているのは映画が好きだからだ。スチール写真は飛行機操縦に夢中になった26歳から撮り始めた航空写真もフイルムのデジタル化で残すことが出来た。でも枚数は今のデジタルカメラで撮影している枚数から比べれば僅かでフイルム写真は見れば何時撮ったかは大凡記憶を辿ることが出来るが今撮っているデジタル写真は脳には本格的に記憶されないのは脳が重要でないと判断しているからではと思うこの頃だ。そして今もフイルムで時々撮影している写真は不思議と脳に記憶する事が出来ているのは撮影枚数が少ないからだろうか?・・・
今日の写真も10年前のデジカメペンタックスK01で撮ったものです。

古いデジカメ

2024/11/26

古いデジカメと言っても13年前に買ったLUMIX GF1は一度も故障しなかったデジカメだ。他の一眼デジカメやコンパクトカメラは5年を待たずに故障したり修理ができなくなったが今もメインで使う事もないが健在だ。カメラも電気製品?となり大型量販店で他の電気製品と同じ扱いになった。三十年前なら町のカメラ屋や写真店のウインドウにフイルムカメラやデジカメが並んでいた。購入する時は店員がカメラの説明をしてから持ち帰った。カメラに詳しいプロフェッショナルな店員が応対した時代は過去のものとなった。カメラなんて店員さんの説明だけで十分だった。分厚い説明書を開かなくても高級機でも基本は同じだったアナログ時代を懐かしく思い出した。デジタルカメラは2年で古いと言われる時代だから13年前のデジカメはクラシックデジカメになるのかと今日、撮った写真をパソコンにアップした。
写真の一枚目二枚目はLUMIX GF1で撮影三枚目は数日前の写真です。

パブリックスペース

2024/11/25

琵琶湖岸のパブリックスペースが告示もされずに変わって行くのは良いことだろうか?と感じるのは浜大津港に観望デッキが琵琶湖疏水観光通船の船着き場に変わってしまった。工事は途中なのか簡単な柵で囲われたまま運用されているが告知されたのだろうかと不思議に感じるこの頃だ。琵琶湖は一級河川なので湖岸は国が管理しているのではとルーズな使い方にも疑問を感じた。人工湖岸から眺める唯一の楽しみは広がる琵琶湖と空の空間が演出してくれる大パノラマの風景だ。今日は一日琵琶湖と空が青の芸術を見せてくれた。

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