桜雨情
2016/04/07
今朝は三井寺への散歩は雨、レェインギアを着て雨情を楽しんだ。
道行く人も最近はコウモリ傘を差す人は少なくビニールの透明傘が主流になって久しい、ビニール傘になって雨の日も視界が良くなり、桜や紅葉の頃は傘に乗った花びらや葉っぱが雨の日の情緒を演出してくれ楽しさも増えた。透明な傘に付いた雨粒を見ていると先日に見た映画、写真家ソール・ライターの写真を思い出した。彼の作品、ガラス窓の雨粒越しに見る風景や女性の映っている写真を思い出して、僕も雨粒の付いた傘越しに疏水の桜を撮った。傘に乗っている桜の花びらもと、デジカメで撮った。
パソコンに撮った写真をアップしながらスクリーンで確認して、自分の写真を見ながら、作為がありすぎると感じた、やはり芸術には程遠いと呟きながら、スクリーンの写真を見た。
皇子山古墳
2016/04/06
今日の午後、西大津ジャスコの本屋に向かう途中、皇子山公園の桜の風景を遠くに見ながら自転車で走った。本屋では欲しい本は無く、店外へ、お花見日和と来る時に見た皇子が丘公園へと、園内は家族連れで賑わっている、僕は混雑を避けて、皇子山古墳へと向かう事に、自転車を公園に止め歩いて行く事にしたが古墳へは初めてだ、空撮の仕事で上空からは何度も見ているが地上からはと、古墳への道を辿るも意外と距離があり少し汗をかきながら古墳の上り口に着いた。住宅が立ち並び以前、僕が空から見た様子とは変化していた。皇子山古墳群の説明版を見ると、古墳は四世紀中頃から後期の前方後方墳と、大津の宮が出来る前からこの附近には渡来系の人達が暮していた痕跡もあると書かれていた。満開の桜を見上げながら急な斜面の階段を上ると、城跡の様にも見える石積みが古墳の大きさを表していて、この土地の権力者のものと想像できた。標高164メートルの高さから見る大津市街の風景もマンション等の高層ビルが建ち眺めも台無しだ、木の間から見える三上山が見えるのが唯一の和みと思った。
家に帰り京都新聞夕刊の一面記事に目が、川内原発差し止め認めずの大きな見出しに、がっかりした。原発から出る核廃棄物、使用済み核燃料の保存場所すら決まらない実情、また福島事故の後処理はこれから先何十年もかかり、そして放射能の半減期は何万年から何百万年と時を要すると言われている、皇子山古墳の歴史はたかだか1600年だ、それを遥かに越えて原発から出る放射性廃棄物、使用済み核燃料からの放射能を誰が責任を持って見守れるのか、そんな事は誰が考えても不可能なことは判っているのに原発を稼動して行く事は狂気の沙汰でしかないと思った。
自戒を込めて
2016/04/05
何時も何かにつけて便利さを批判しているが、自分はどうかと、問えば随分と便利さにあやかってきた事を思い出している。今日も湖岸サイクリングではデジカメで写真を撮ってパソコンのお世話になって、毎日、湖畔通信に載せている、これがフイルム時代なら経済的にも無理なことと考えながらパソコンの前で考えた。今日も湖岸の桜の風景を約90枚、デジカメで撮っているフイルムなら約三本使用したことになるが、枚数を撮った割りには良い写真は少ない、あまり被写体を見ずに撮っているのかと画面を見ながら反省した。僕は写真は記録と思っていて芸術写真など撮ったことが無いと思っている、でも最近のデジタルで撮る記録写真の軽さには時々空しさを感じて、やはり記録はフイルムでと考えた。でもカメラは重いし、年金爺の体力と金力にも限界がと思った。
雨後の湖岸
2016/04/04
雨も上がり湖岸サイクリングに出かけ打出浜の湖岸より眺める雨後の景色は風情があり、ついつい写真に撮りたくなる、湖岸に立って水気を含んだ空気の中にいると心が静まり考えが広がって行く、辺りを見渡すとオオシマザクラが満開となっている、今年は湖北へ行く宛てもないので琵琶湖と桜の景色は大津の湖岸で楽しむ事にした。昨日は京都駅の近くキャンパスプラザで3月9日の大津地裁仮処分決定の緊急報告集会に参加した。報告の中で井戸弁護士が原発の再稼動は社会が決めるものと言われ、専門家や電力会社、政府が決めるものではないと強く語られたのが印象に残った。原発が稼動していなくても日本経済は動いていて何の問題も起きなかった事などを考えても再稼動の必要なしと思った。今朝もコメダでコーヒーを飲みながら朝日新聞を見ると大きく一面に使用済み核燃料に税金を掛け地方の財源にと、また消費者の電気代に加算される事は目に見えているが原発の問題は根深いと資本主義経済で発展思考の社会では解決できる可能性はゼロに近いと考え少し暗くなった。最近は反知性主義の時代と言われているが、いまこそ知性優先の社会を構築しなければ持続性のある社会など出来るはずが無いと思った。
賑わいと混雑
2016/04/03
ライトアップが始まり、我が家の近辺は騒々しく感じている、これが賑わいと言う事かと思ったが少し違うなと本心は思っている。日本人は何故こうも桜に熱狂するのかと、不思議なことと毎年、桜のシーズンが来ると考える、幾らでも春に咲く美しい花はあると思うのだが、僕は白いモクレンの花の方が好きだと、高観音のモクレンは多数の桜に囲まれても凛として気高く、俺は此処に咲くと自己主張している姿に憧れた。
さて話は混雑に、昨夜も三井寺のライトアップに向かう車のテールライトに美しさを感じ、まるでSF映画のワンシーンを見るようで楽しかった。三井寺の境内も賑わいがあり多くの人がライトアップを楽しんだが桜や他の木々たちもライトに照らされて、迷惑をしている事と思いながら足早に歩き帰宅した。春の桜は人を熱狂へと駆り立てる、桜花は僕は余り好きになれないと・・・そしてこの国が熱狂の渦に巻き込まれて又、戦争へと進んで行きはしないかと少し心配になった。

















