中島省三の湖畔通信

軽くなった写真

2023/09/05

久しぶりに階下の本箱を見ていると「プルースト/写真」ブラッサイ著が目に止まり午後の暇な時間に読み始めた。ブラッサイはパリの夜の写真で有名な写真家でカメラが大型でフイルムの感度も低く夜の町での撮影は難しかった時代に活躍した。そしてプルーストと言えば長編小説「失われた時を求めて」で有名なフランスの小説家だ。読み始めた本は、プルーストは写真好きでコレクターで有名な人と交流した際に写真を交換することらが書かれた内容は面白く直ぐに読み終えそうだ。写真が重さを持っていた時代背景は人がアナログでコミュニケーションをとりながら生活していた社会は時間がゆったりと流れていたのではと思った。スマホやデジカメで誰もが簡単に撮せる時代ではなく、写真館で写真を撮るのが普通で、しかも裕福な人たちが装いを凝らして撮る肖像写真的なものが殆どだった時代だ。僕の少年時代も写真を撮るのは一年に一回、近くの写真館で撮っていたが、中学生の頃にはカメラの普及もあり写真館に向かうことはなくなった。でも我が家に残っている写真も写真館で撮った写真が一番存在感がありアルバムの中でも写真の重さが光っている、そして母の写真は何故か写真館で撮った少女時代から大人までの写真が数枚在る、その写真を見ているとスマホやデジカメで撮った写真の軽さは何ともし難いと見飽きてしまうのは何故と・・・時間の定着が短いからかと思った。今日も軽い写真を多く撮った。今日は少し反省する日になった。スマホやデジカメで写真を撮る回数も少なくしようと考える日となった。

毎日撮る写真

2023/09/04

毎日の散歩やポタリングで撮る写真も場所が限られているのでマンネリ化にどう対処したらと思うが名案は浮かばないから自分に困った。今日もスマホとデジカメで散歩写真を撮った。近くの鹿関橋から疏水の流れを見ると観光通船が三艘繋がれていた。間もなく秋の観光シーズン、通船の乗り場も浜大津港になると聞いているが、大津閘門からも乗船できるのかと繋がれた通船を眺めた。湖岸から眺める琵琶湖は雄大で僕は見飽きることはない、大気の流れが作り出す大空の雲の風景は同じ姿を見せることはない、そんな刹那を大切にしながら過ごせる琵琶湖の湖岸をポタリング出来ることが、やっと幸せに思えるようになった。もう何も気にせずにシャッターを押してマンネリ写真を撮り続けようと琵琶湖を見た。

写真一枚目は今日の琵琶湖畔から  二枚目はフイルムカメラで撮った。西武百貨店から巨大集合住宅へと変わるにおの浜の景色。三枚目は百円商店街の賑わいが一段落した町中・・

青空の休日

2023/09/03

何時もの散歩で三井寺の展望台から青空を見上げると秋の雲が見られ肌に当たる風は涼しく感じた。ツクツクボウシの鳴き声も少なくなり境内は静かだ。観光シーズにはまだ早く訪れる人も少ない休日の三井寺だ。浜大津港では秋の観光シーズンに向けて疎水通船の桟橋工事が進んいる、通船も桟橋に繋がれていた。秋の観光シーズンからは琵琶湖疏水通船は浜大津港が発着場になり、大津閘門付近での人の賑わいは無くなり静かな観光シーズンになるのではと思った。午後は久しぶりに膳所公園まで湖岸ポタリングを楽しんだ。膳所の港には釣り船が多く繋がれたままで、休日なのにバス釣りの客の姿もなく静かな佇まいだった。

写真二枚目は浜大津港の様子、少しアオコの兆しを感じた。三枚目はフイルム写真で今日撮った膳所由美浜サンシャインビーチです。

イベントで賑わう

2023/09/02

9月に入るとイベントが多くなり湖岸や町中も賑わう、今日は湖岸ではイベントがあり、湖岸清掃や外来魚釣り大会そして演芸会も湖岸で行われていた。一方町中では恒例となった百円商店街が何時も静かな大津の商店街が賑わっていた。賑わっている商店街を見ていると昔の繁栄していた頃の商店街を思い出してきた。イベントとで此れだけの人を集められる潜在能力のある商店街が何故復活できないのかと不思議に感じた。菱屋町と丸屋町を繋ぐ京阪電車京津線の電車通りを渡る人の多さに驚きながら写真を撮った。

関東大震災

2023/09/01

関東大震災は1923年大正12年9月1日午前11時58分に大地震が東京に起こった。そして今日は防災記念日でメディア各社は特番を放送する局も会あった。災害は忘れた頃にやって来るの諺を思い出し気を引き締めた。そして僕の母、芳子さんは関東大震災の経験者で子供の頃から震災の話を聞かせてくれた。芳子さん12歳の時に東京の人形町で震災に遭った。被服工廠の方へは逃げず、雇っていた職人さんの判断で皇居の方へ逃げたと語ってくれた。皇居の堀に一升瓶を投げ入れて、堀の水を飲料水に使ったことや、築地の市場の人たちが食料品を無料提供したことなども話してくれた。そして痛ましい暴動デマで多くの朝鮮人の方が亡くなられたことは高校時代に歴史の授業で奥村先生に聞いていたから、芳子さんの印象を尋ねると、朝鮮人が暴動を起こしているので避難させらたことは語ってくれたが、当時12歳の少女でしかも避難民では精しい経緯などは分からなかったと思った。芳子さんが84歳の時にビデオでインタービュー記録するも高齢で詳しく聞き取れなかった事が残念だった。小学生の頃、母と町中で地震に遭った時に母は一番に京阪電車の線路に僕をつれ逃げた。家で地震があると父は柱に捕まるが母は揺れが収まるまで悠然としていたことを思い出した。母は慌てて屋外にでると家の瓦などが落ちてくるからと言っていたことを思い出した。住んでいた人形町の家は火災で焼けてしまったがその後、復興して結婚するまでは東京で暮らした。僕の家族で唯一の災害経験者だった。言葉数は少なかった母は、知っていても語らなかった人だった。もっと震災の話を聞いておけば良かったとおもう震災記念日になった。

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