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テレビと映画

 最近、多くの知人から大きいテレビを買って映画やサッカーを見ているとそんな話しをよく耳にする。テレビのブラウン管もしくは液晶のフレーム内での出来 事を見ているだけで、ニュースにしてもテレビの小さな枠のなかでの事象を眺めているだけで、スポーツ中継にしても画面から飛び出たボールの動きにはいらだ ちを覚える。明るい部屋で見るドラマも、画面以外に目にする日常とかけ離れた内容がずれとなって集中することが難しい。映画館の暗闇でみるドラマは画面の 中へ感情移入でき、いつのまにかスクリーンと言うフレームが取りはずされている。ビデオで見る映画と映画館とでは大きな差があると私は思う。最近の日本映 画は日常の表現がまずくなってきているのはテレビと言うものに毒されてきていると思えてならない。ニュースにはなにの疑いももたず、垂れ流しされる映像を 眺めているだけ。作り手も手抜きドラマの内容も非現実的。最近見た韓国映画”春の日は過ぎゆく”は久しぶりの日常を表現した秀作であり男と女の感情表現は すばらしいの一言です。暗闇のスクリーンから無限に広がってゆく世界は家のビデオで見る映画とは大きな開きがあると思う。それにしてもこの映画、男の心 情、所詮男らしいと言うことはウジウジとしたナイーブな事が本来男らしいと言うことだと教えてくれた恋愛映画。別れの素晴らしさはすがすがしさをよび、失 恋映画の暗さはない。監督 ホ・ジノ の名前は私の記憶からは消えない。

追 テレビは枠フレーム内を見るもの、映画はスクリーンの枠外が見える事の違いと思える今日この頃です 。    

2002/7/20

天平の仏さま

 6月のある雨の日、大仏開眼1250年で賑わう奈良へ出かけた。奈良公園あたりは東大寺へ向かう人並みが途絶えること がない。さすが古都奈良。どこからでもかかっていらしゃいと南大門がどんと手を広げて大勢の人たちを天平の時代へと向かえてくれているようだ。この門はい つ見てもスゴイ。あらっぽくも見えるが無駄のない作りはダイナミックさを強調させていて、現代にあっても最高の建築物だと思いながら門をくぐり、秘仏が公 開されている法華堂へむかう。友人の福家さんより今回公開されている秘仏のうちでも執金剛神像はスゴイと言うことを聴き、そして拝観券までいただき、天平 の仏さまに会える機会を与えていただいたことに感謝しながらお堂に入った。少し斜めから秘仏執金剛神像に初対面。おもわずその場に立ちつくすほどの美しさ に私は驚きと天平の仏師たちのたしかな腕と目に感心するばかりです。お堂の正面には美しい姿の仏さま。まんなかの不空けん索観音さまのおおらかなお姿。頭 上の宝冠は博物館に展示されているとのこと。すがすがしい気持ちで博物館へ向かう。宝冠はガラスケースの中に。どの方向からも細部まで見ることができ久し ぶりの充実した時であった。ふと私の脳裏に、無数の銀の棒が冠からでている宝冠は天平の人々の悩みや願いごとを聞き取り受け入れるアンテナのように 映った。宝石は願いやなやみを整理するラジオに内蔵されているトランジスターの様に私には見えた。光背からでている光もアンテナだったのかも。悩みや願い を聴いてもらった天平の人たちは幸せだったのだろう。現代人は人の話にあまり耳をかさず自分勝手にいきるのが最上と思っているのだろうか。そう言う私もま ぎれもなくその一人である事にちがいありません。今必要なもの、それは世の中の苦しみや悩みを聞ける心のアンテナを私もたてようと思いながら奈良を後にし た。

2002/7/11

三井寺の赤門

 梅雨に入り三井寺の境内の緑も深みをましてきた。小雨の中緑のトンネルの石段をあえぎながら駆け上がる。展望台より見る風景は水墨画を見ている様で、神 秘的な世界に引き込まれて行きそうだ。8時と言うのに大津の町は静かに眠っているように感じる。私は今年の冬みた夢を思いだした。いつものように境内を散 歩していると、行く手に突然赤い門の寺院が現れ、門のまえにつむじ風が落ち葉を吹き上げている。落ち葉の舞い上がっている元に目をやると半円形の黒い岩が 見え、よく見ると白い気流が流れてまるで宇宙から黒い地球を見ているようだ。時折キラット光る落ち葉の様であり、見たこともない綺麗な物体が黒い岩の中に 消えて行き、又新しい物体がとどめもなく流れて、その美くしさは私の今までみてきたモノとはたとえようがないほどです。魅せられていると後ろのほうで声が した。あなたには大切なものや綺麗なものが見えますかと。振り向くと老僧が笑みを浮かべてたっている。黒い岩の方に目をやるとつむじ風がやみ、落ち葉が岩 を覆った。また振り返ってみると老僧の姿はないそして夢から覚めた。本当に美しいものや大切なものが見えているのだろうか。この頃の私の生き方の中で見よ うと努力しているのだろうか。ある日、ドクダミの花を一輪差しに生けてみた。白いクロスの可憐な花が西日を受けて綺麗だ。このことは以前京都の大吉さんで の話しで、私は花は自然にあるのが一番美しいと言うと、大吉さんは自分が以前ドクダミの花を生けた時の話をされた。とてもきれいな花でまた自然にあるとき と違う美しさがあると言われたことを思いだし生けた次第です。数日が過ぎドクダミの花は朽ちて行きました。美しい物も大切なこともやがて消えて行くので しょうか。心の中にあれば消えないのでしょうか。でも記憶も薄れてゆきます。本当に大切なこと、そして美しいものがあるのでしょうか。赤門の老僧はなにを 言いたかったのか。私はやはり見ようとする努力、それは今を感じ、その時どきに感性で判断して行き、大切な事美しいものがあるのだと信じて行こうと思う。 まだ現実の三井寺の赤門は拝見できずにいる。緑のトンネルの向こうにはあるのかも。

2002/6/20

天然湖と人工湖

 久しぶりに湖岸を浜大津から膳所公園へと自転車で走った。ヨシ一本生えていない人工湖岸をはしりながら最近もらった パンフレットのことを思い出した。天然湖と人工湖を説明している内容で、どちらの特長も書かれていて解りやすい内容になっている。琵琶湖ははたして天然 湖といえるのだろうか。人工湖岸や辺りの風景を見る限り疑問を持たざるをえない。まして南郷にある瀬田川洗堰で水位を調せつしているのだから準天然湖か な。ブ ラックバスやブルギルの住む湖の風景が似合うのかも。湖岸の植物は外国産の芝や樹木、近代的な建築物が人工湖に変わりつつある琵琶湖の現状を感じさせてく れる。ボテやフナ、モロコが銀鱗を見せてくれる日はくるのだろうか。私は少し異臭のする湖面を見ながらペタルをこいだ。

2002/5/21

夕焼け

 空を見上げると青いキャンバスに雲が絵を描いているようだ。絹雲や高積雲が秋の気配を感じさせてくれる。夏の厳しい暑 さも過ぎ、私は少し気力を取り戻し雲に誘われて撮影に出かけた。陶器のピンホールカメラを自転車に積み浜大津港へ。時間は4時、桟橋には出航を控えた遊覧 船が停泊している。カメラを三脚にセットして構図をきめる。上空に雲があれば最高の写真が撮れるのだが。南西の空に高積雲こちらに流れてくれないかなあと 待つこと20分。なんと遊覧船の上空に雲が。あわててフイルムを装着撮影。約20秒の露光をかけ数枚撮影。気の流れが自然との一体感を私に伝えてくれてい るようだ。6時をすぎる頃西の空が夕焼けの準備を始める。カメラを西の方へ向け私も夕焼けの撮影の準備にかかる。刻々と雲の形や色が変化して行く。まるで 大自然の懐深く抱かれているようなここちよさを感じながらフイルムに5分間の露光を試みた。そして夕焼けの一大ショウは幕を閉じた。私は充実感を抱きなが ら家路についた。数日後現像が上がり、ポジにはあの美しい夕焼けが私のイメージどうりフィイルムに刻まれていた。写真をデジタル加工のため京都のラボへ。 そしてその日の帰り京阪電車が地下を抜け山科駅をすぎる頃、電車の後方には見事な夕焼けが見え壮大なドラマを予感さしてくれる。電車は太陽とは反対方向 へ。大谷駅をすぎトンネルにはいるとわたしは眠りに誘われた。私の耳に車掌の声がアンドロメダと聞こえた。電車は銀河鉄道、私は宇宙へ旅だって行けるのか なあ。

2001/9/4

サルとコウモリ

 8月27日いつものように三井寺さんへ散歩に出かけた。蝉時雨もやみ少し静けさをが帰ってきた石段を中程までさしかかると、林のなかの叫び声があたりの 静寂をやぶった。辺りを見回すとサルの群が枝から枝へ飛び移ったり地上を駆けめぐっている。可愛い小猿も小枝で戯れている。日本画の野猿図を見ているよう でしばし立ち止まり観察していると、小猿の警戒音でボスザルが私の方へ向かってきた。私は静かに後ずさりしてその場を後にした。山の自然も人間のせいでこ んな人家の近くまでもエサをさがしに山から下りてきているのか。でもお猿さんたちいい顔していたな。そんなことを思いながら家に向かった。その日の夕方疎 水の鹿関橋で空を見上げると、コウモリが乱舞している。疎水のトンネルに生息しているコウモリ達だ。ほ乳類で唯一空を飛べるのはコウモリだけ。羨ましく眺 めていると、航空医学博士の黒田さんの話を思い出した。人間には飛ぶと言う感覚は備わっていないと。だから雲の中の乳白色の中では下がっているのか上がっ ているのかまた傾いているのかも解らなくなり、やがて飛行機は緊急事態へ。これが空間識失調と言われている症状でコウモリや鳥たちには起こらないとのこ と。人間の設計スピードは4キロだと、くれぐれも気をつけるようにと言われた。しかもコウモリは計器飛行までも可能でレーダーを装備。薄暗くなった空でコ ウモリの乱舞は続く。子供のころの遊びでこうもり傘をパラシュート代わりに石垣の上より飛んだのをおもいだした。傘が壊れるほんの僅かの時、たしかに感触 としてフアッと浮いた様な感じを今も覚えている。私は飛行機や熱気球、パラグライダーで空で遊んできました。秋空を見上げると飛行したくなります。玄関の 傘立てに目をやるとこうもり傘がカタンと横に杖を振った。

2001/9/1

バナナ

 今日は8月15日終戦記念日。私は朝食のバナナをほおばり朝刊に目を。その時太平洋戦争の思い出がよみがえる。昭和19年私は5歳の時、祖母が南方の戦 地よりのハガキの内容を話してくれた事だ。父の使用人だったマサドと言う人の事。マサドは私をたいそう可愛がってくれたそうで、今も私を膝のうえに抱いて いる写真がアルバムに貼ってあり、優しい顔をした21歳の青年です。その彼がハガキの中で南方ではバナナがいつでも食べられると。そして省ちゃん(わた し)に食べさせたいと書いてあると祖母が私に聴かせてくれたことが、56年間の時間を感じさせないほどの距離で思い出される。戦争はマサドのように優しい 人まで巻き込んでしまう。21歳の若さで戦死、バナナの茂る南方で。私は61歳楽しい自由な人生を送っている。戦争がなければマサドも楽しい人生がおくれ たかも。私はバナナを食べ終え外へ、郵便受けを開けると南国マレーシアへ遊びに行ってきた友人からの絵はがき。楽しい笑顔の二人。空を見上げると真っ青な 夏空にトンビが弧を描いている。

2001/8/15

追:平和な時代が永く続いていると平和の大切さを忘れかけているのかも。今日バナナは果物の中では一番安いモノである。 高価だった少年時代、大切なモノも沢山あった。そんな事を考えながら終戦記念日にあらためて戦争のない世の中を大切にしたい。そしてマサドの思いでは私の 心に永遠に。優しい人マサドの冥福を祈って。

柳と風

 最近見たイラン映画の題名だ。物語は少年が割ったガラスを先生に修理するようきつく言われ友達から借りたお金でガラス 屋へ、そして風や雨を受け苦労して学校へ。窓枠にはめたガラスも少しのスキに風にとばされまた少年はガラス屋へ。映画は美しい夕景の中を友人のバイクに乗 せてもらいガラス屋へ、映画はそこで終わっている。ずいぶん考えさせられた。モノが溢れ、豊かすぎる生活。映画の中の少年は丘を越え、川を渡り、時間をか けてガラス屋へ。今我が国ではそんな事ぐらい電話1本で済む事でしょうが、イランの現実(地方)は大変だと感じると同時に人と人の関わりのすばらしさに羨 ましくさえ思えた。連絡は電話(携帯)でとれる、相手の顔も見ず本当の人間関係を築けるのだろうか。ほしいモノはカードやインターネットでなんの苦労もせ ず手に入れることができる。落とし穴はないのだろうか。不便だと車を乗り回し駐車場は満車、そして路上へ迷惑省みずの駐車。今年は猛暑、クーラーが唸りを あげている。イラン映画の画面は自然描写が素晴らしく、オリーブの美しい林、水の綺麗な小川、そして風や雨までもが光っている。最近私はにわか雨に会い久 しぶりの雨の感触を味わった。でも雨はなまあったたかく光らなかった。そして夜、パソコンの画面にフイリッピンのネグロス島の友人メッセイジ。こちらは気 温31度、日本の気温37度、省チャン大丈夫かと。その日近畿地方は熱帯夜。アツイ、アツイ日は続く。    

2001/8/8

ライカ

 ライカ、ドイツ制のカメラ。40年の時を経ても今も使用できるレンジファインダーで、レンズ交換の出来るカメラの虜に なった。今年2月京都寺町の茶房大吉での話である。主の大吉サンから愛犬の死の3日まえの白黒の写真を見せられた。愛犬の息使いまで描写したスバラシイ写 真で、撮影者は京北に住まわれている浅井サンとのこと。カメラはライカであると大吉サンからの話。数日ごお店を訪ねると大吉サンの手に古いライカ3fが。 エルマーの50ミリ着きだ。デザインは完成され付け入るスキがない。手にふれると小型ではあるが存在感のある重み。空シャッターをきる。40年かんの時間 の空白を超えカッシャと音がした。私は数ヶ月後中古のライカ3fにズマロン35ミリ付きを手にいれた。カメラは使いにくく不便なものだが、使い込んで行く と不思議だ。楽しさと愛着が日毎に増してくる。露出は勘。巻き上げはノブを回す。じつにのどかなものである。出来上がった写真は撮る人の感性が溢れた楽し い写真だ。この頃大吉サンのお店ではライカ談義に花が咲きあっという間に時がながれる。いまではお店の棚には大吉サンのバルナックタイプのライカが並んで いる。私はライカを肩にエコフェアーが開かれている浜大津の湖岸から近江大橋の方へ向かった。太陽光発電、風力発電を利用したイベント用のイルミネーショ ン。発電用のパネルは40年も使用できるのか、いろんな事に疑問がわいてくる。身近なところで私はカメラに電池がなければフイルムも巻けない。ただの産業 廃棄物。エコ、エコと言われるが快適な生活を求めて止まない現代社会。温暖化のことを考えながら自転車をこぐ。そして家へ。冷蔵庫からビールを。矛盾を感 じのどを潤した。ガラスケースの中にはゼンマイで動いた8ミリカメラが今のビデオカメラの時代を静かに見ている。柱時計は止まっている。修理にだそうと時 計に手をやるとボーンと時を打った。

2001/8/6

 

真夏の夢

 三日坊主と幼い頃から父や母から言われた私が三井寺の境内を散歩するようになって一年が 過ぎた。温暖化のせいかうだるような暑さの毎日。習慣とは恐ろしいもので時間がくると三井寺へ出かける。石段の桜のトンネルを私は蝉時雨のシャワーを浴び ながら展望台まで駆け上がる。そ して深呼吸。眼下には土用の朝曇りでどんよりとした空の下、琵琶湖と近代化の進む大津市街が暑さに耐えている。石段を降りようと足下に目をやると、体長5 センチ程のトカゲの子供が素早く石垣の隙間に逃げ込んだ。このまえみた美しいトカゲの子供だろうか、そんな事を考えながら参道を歩いていると、いろんな音 が私を楽しませてくれる。ブーンと飛行機の様な蜂の大群、森の中からは小鳥達の声、木々の間をすり抜けるカラスの見事な飛行術、そして蝉の大合唱が夏の暑 さを持ち上げる。でも時折木立の中から涼しい風が汗ばんだ体を冷やしてくれる。そして私の短い20分の散歩が終わりまた平凡な一日が始まる。でも今日は 違った。何万年後か何千年後熱帯化した三井寺の境内を散歩していると、5メートルはある巨大なトカゲ石段をふさいでいる。きずかれないように森のなかえは いると黒い翼長3メートルはあるカラスが私に襲いかかる。必死に逃げる。そして大きな石にけつまずきころぶ。なんとそれは2メートルもあるゾウガメ。そこ で夢は終わった。地球の温暖化が進むなか私達の暮らしは、そんな事を考えながら境内を歩いていると森の中からアーアーとターザンの声、そらを見上げるとカ ラスが夏空をかすめた。

2001/7/30

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